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博士号を取ろう!

工学部に在籍中・出身の学生の皆さんへのメッセージ

(楠見が所属している京大工学部の学生諸君を主な読者と想定して書きました)

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はじめに

大企業病はびこるジェネラルエレクトリック社(GE社)を蘇生させ、90年代前半に黄金時代を築いた、ジャック・ウェルチ(Jack Welch)という人がいる。ジャックが書いた自伝に、印象的な場面が出てくる(「「Jack」」Jack Welch著 2001 Warner社、現在、Headline社からペーパーバックが出ている)。

ジャックは、ある日、 博士研究員の先輩と飛行機に乗った。その頃は、飛行機は小さく、大衆的な乗り物ではなかったので、客室乗務員のサービスも個人的なものだった。彼女は、ジャックに、「飲み物はいかがですか、ウェルチさん(Mr. Welch)?」と尋ねた。次に、彼女は、隣席に座っていた博士研究員の人に「 飲み物はいかがですか、ゲルトナー博士(Dr. Gaertner)?」と訊いたのである。ジャック・ウェルチは、この差に鋭敏に反応した。「Dr.と呼ばれる方が、Mr.と呼ばれるよりも、はるかにかっこいい。」という訳だ。彼の直感は正しく、実際、アメリカは高いレベルでの資格社会であるので、博士号の学位をもっているかどうかで、全く違う世界が出現する。そのことに彼が気づかなかったら、後年の彼は無かったであろう。

以下では、博士号をもたずに日本の企業で働く多くの人たち、特に開発を担当している人たち、にとっては不愉快なことを書くことになる。実際、私は彼らの多くを非常に尊敬しているし、よきパートナーである方々も多い。それだからこそ、私は、彼らには、彼らの子供達に、「学士や修士で企業に就職するのではなく、博士号をとってから、未来に続く大きな可能性(学士や修士よりもはるかに広く、はるかに面白い)を試すほうが、これからは、はるかに良いんだよ」と話をして欲しいと思っている。

これまでは、日本の社会は、「博士号がないと、面白いことができる可能性が狭まる」、という風にはなっていなかった。企業ではたらく人たちで、博士号無しで重要な開発にかかわっている人は沢山いる。また、企業では、「博士などをとった人は使いにくくって仕方がないし、どうせ大学での研究は役に立たないし、修士の人までしか雇わない」という状況があったことも事実である。だからといって、これからもこのような状況が続くとは、全く考えられなくなりつつある。これに気がつかず、今までのトレンドだけを信じ込んでいると、いわゆる「負け組」への道を進むことになる。これを示す沢山の状況があるが、ここでは3つだけを挙げよう。

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これからは、博士号をもっていないと損をする!3つの理由

(2-1) 国際化社会では研究者、開発担当者として認知されなくなる

博士号無しで開発に携わっている人が、外国で研究しようとしたり、外国企業と共同研究しようとすると、資格、人間関係などに悩むことになる。つまり、これからの国際化社会では(つまり、国際的な活躍をしようなどとは思っていなくて、日本でいいやと思っていても、仕事自体が国際化してしまっている)、博士号がないと、惨めな思いをすることが増える。博士号がないと、まともな共同研究相手や交渉相手とは認められないことも多い。例えば、日本でも、中卒や高卒の資格で、開発部隊にいて、大きな貢献をしている人もいる。職人という立場からの優れた貢献というだけでなく、研究者としての貢献である。しかし、その人達の処遇は簡単ではない。それと似たようなことが、修士(アメリカでは、博士号をとるまでにドロップアウトを余儀なくさせられた人のために出す学位)しかもっていない日本人が、外国での開発、外国企業との共同研究や交渉などにあたろうとするときに起こってくる。このような、国際的な関わりが無くてもすむ企業の開発活動は、これからはほとんど無くなる。

さらに、中国シフトなどが拍車をかける。全く違う背景の人たちが集まるとき、最も単純なスクリーニングは資格であるが、中国はこの傾向が強い。日本側が学位をもたない人を担当に出したといって感情を害されたり、先方の担当者から相手にされないというようなことも起こってくる。

最近、日本の小さな企業までがISO9000などのような国際認証を取ろうとするのも同じようなことだ、とも言える。国際的に名が知られていない企業には、国際的な発注は、普通はなかなか来ない。信用できるかどうか、見届けるのが難しいからである。ISO9000を取ったら、突然、外国からの注文が増え始めたというのは、よく聞く話である。つまり、知られていない個人が渡り合うためにも、何らかの認証が必要で、それは、博士号なのである(国際的な認証機関によるものではないが、それでも、そこそこ通用する)。日本で、東大とか京大とかいうと、それなりに名前は知られているが、これらは、Stanford とか UCLA といったような国際ブランドではない。国際的には、東京とか京都とかいう町が有名で(日本の都市で、世界に知られているのは、Tokyo, Hiroshima 位、次が、Kyoto, Nagano。Naganoは数年すれば忘れられてしまうであろう。アルベールビルってどこの国にあったか覚えてないでしょう?)、そこにある東京大学とか京都大学というのは、そこそこの(少なくとも規模からいうと)大学なのだろう、というような認識である。ソウル大学とか北京大学という名前を聞いたときの、日本人の反応と同じだよ。だから、国際的には、東京大学の修士号よりは、トンキン大学(もちろん架空)という誰もきいたことのない大学の博士号の方がはるかに値打ちがある。東大や京大で修士号を取ったが、博士号をもっていない人は、ほぞを噛むことになり、後悔の念に沈みそうである。

実力さえあれば認められるはず? その通り。実力を示す機会と時間が与えられればね。しかし、社会はどんどん忙しくなりつつあるので、可能性は少ない。

企業に勤めながら、博士号をとるのも、どんどん難しくなる。企業は、即戦力に傾斜し、研究者一人に長期間投資し続けることは、企業の目的とは合わないと考えるようになりつつある。企業でやったことをまるまま受けて学位を出すような大学は、存在意義が問われるので、どんどん減少すると思われる。

この項をまとめる。これからの日本は国際化しか生きる道が無く、そこでは、博士号をもっている方がはるかに有利である。もちろん、外国で働きたい人は、博士号をもっていないで研究や開発をしようとすると、無免許運転扱いされるか、会員制クラブに資格無しで潜り込んだような居心地の悪さを感じることになる。企業に勤めたまま学位を取る道は、険しくなる。

(2-2) 日本の会社も資格社会になる (アメリカの通った道を追従する)

日本の社会がどうなっていくかを予言するのに一番簡単な方法は、アメリカの社会を見ることである。分野によって異なるが、5年とか10年とか時期が遅れて、日本社会も同じように変わる。時間のずれ方は、今までの規制の強さによって異なる。例えば、日本では銃の規制が極めて強い。したがって、アメリカのように危険な社会になるには、もう少し時間がかかるかもしれない。しかし、社会としては、既にアメリカと同じ危険社会になりつつある。学校の襲撃事件、子供の誘拐、凶悪犯罪の増加など全く同じで、銃規制がなかったら、アメリカと同様になるだろう。

日本での日本人の職は、日本語という壁(規制)によって守られてきた。大学だってそうだ。有名大学でも、国際的に通用しないダメ教授は沢山いる。しかし、日本の大学では、教育でもアドミニストレーションでも(今では特に後者)、日本語が話せないとなかなかできない。だから、外国に有能な人が沢山いても、日本では、企業でも大学でも、日本人の採用と競合することはなかった。しかし、これは、今どんどん崩れつつある。NissanとかMazdaの例で分かるように、ある日突然、あなたの上司は外国人になる。企業でも大学でも、そこそこの割合で外国人がいることがステータスとなっている。だから、職の面でも、日本はアメリカ社会に近づきつつある。

竹村健一さんという、この30年間以上、マスコミの売れっ子であり続けてきた人がいる。すごいことだ。日本の近未来を予言する本を書き続けている。彼の手法の要点の一つは、アメリカ社会をよく観察しているところにある。それに基づき、あとは、日本での規制と日本の政治・経済の特徴を考慮して、近未来の日本を予言したり、提言したりするということだ。

アメリカは、研究や開発においては、完全な資格社会である。博士号をもっていないと、まともだとは思われない。ちょうど、40年くらい前の日本で、「大学くらいは出ておかないと、これからは困る」となった状況に似ている。現在、アメリカでの研究・開発の社会では、「博士号くらいはもっておかないと困る」となっていて、日本の研究・開発の社会では、「修士号くらいもっておかないと困る」となっている。だから、20年後を考えると(皆さんは40代となり、一番活躍しようというときだ。また、自ら転職したり、望まないのに子会社へ出されたり、肩たたきがやってくるときでもある)、日本でも、「博士号くらいはもっておかないと困る」という風になっていると、私は予想している。

これからは、高校の先生でもそうなると私は見ている。多分、少しまともな高校の校長は、20年後には、博士号の保持者で占められる。

このような状況を諸君は知らなくてはいけない。ここまで読んで状況を理解したら、「博士号という資格無しで、次の20年とか40年の間に自分がしたいことができるかどうか」考えてみて欲しい。

この項をまとめる。日本社会は基本的にアメリカ社会に追随して変化している。職についてもそうだ。あと20年すると、日本の研究・開発の社会でも、「博士号がないと相手にされないとか、変に思われる」ということになろう。

(2-3) 汎用的な実力がつく大学の研究室は多数存在する

しかし、「日本の大学は遅れているので、大学にいて博士号を取るのでは力がつかないし、また、企業も歓迎しない」という懸念をもたれる諸君も多いであろう。

これは、博士号を取る研究室をうまく選ぶことによって解決できる。少なくとも、就職の時に会社を選ぶであろう時と同様の努力と時間を、研究室の選択に使わなくてはならない。研究室は出身学校に限る必要はない。まともな大学院ほど、他大学や他学部の出身者に対してオープンである。(レベルの高い)欧米の大学院では、基本的に指導教授を納得させれば大学院に入れるのに対し、はるかに研究レベルが低い日本の大学院では(東大や京大を含めて)、大仰な大学院入試を実施しているのも笑止なことである。(自分のところで行っている研究に自信がない研究科ほど、そこの出身者にしか解けないようなつまらない出題をする傾向がある。おそらく、教員が不勉強でもっと一般的な設問ができないか、今までの習慣から抜けきれずにいる後進地なのであろう。そういう大学院に、気に入った指導教官や研究室があったらどうするか? まずは相談に行く。うまい抜け道があるかもしれない。抜け道がなかったら、受験のコツを詳細にきく。その手の大学院は、実は内部にいる4年生なら劣等生でも合格できることが多い。すなわち、出題傾向が決まっていて、それだけやれば合格できるのである。だから、見かけ上の受験しにくさにがっかりせず、相談してみよう。)

日本にも世界にも大学院は沢山あり、素晴らしい研究を進めている研究室は沢山ある。客観的に見ても素晴らしく、君自身も気に入るような研究室は、絶対に見つかるはずだ。出身校や専攻にかかわらず、大きな視野をもってサーチするのがよい。研究室の選び方のポイントは、この文章の最後でまとめる。

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でも、博士までいくと、やはり日本の会社への就職は難しいのでしょう?

上で書いたように、昔は、「博士号を取った人は、大学院で研究したことを継続したがるし、頭が固まってしまっていて(あるいは頭が固くなってしまっていて)、使いにくいから雇わない」という企業が多かったし、今でもその傾向はある。これについては、2つのことをいいたい。

(3-1)今では、このようなことは、世界標準に達しないニセ研究をやってしまった場合、あるいは自分の能力を伸ばすのではなく、偉い先生に寄りかかって、言われることだけをやって自分がえらくなったと錯覚しているような人に対して起こる現象である。昔は、このパターンが多く、会社に入っても、同じことを続けようというようなことを考える了見の狭い(=結局は研究能力が低い)者が多かった(あるいは、先生が会社に紹介するときも、そのようなひも付きにすることもあった)。このようなことが頻発したこともあって、会社も博士号取得者は避けたい、と考えるようになった。

本当によい研究が大学院を通じてできたらどうなるか? まず、基礎学力や実験遂行能力は、信じられないくらい上昇する。教室での学習は受動的だが、大学院では、自分のやりたいことを達成するための学習(または再学習)となり、身をもって理解したという感じになってくる。さらに重要なことは、深く理解するとはどういうことかが体感できることである。次に、研究するとはどういうことかがわかる。上質の研究を遂行した体験があってはじめて、研究に対する感覚が研ぎ澄まされ、研究というのはどうでなくてはいけないか、よいラボというのはどういうものかが分かる。さらに、広い意味での研究の進め方が分かる。世界の研究者との人間関係の作り方、競争の知り方と競争の仕方、当該研究一つ一つだけではなく、ラボとしてのプレゼンの仕方を知ることができる。

つまり、言いたいことは、大学院で博士号を取ることで、君は、非常にファンダメンタルなレベルでよい研究者になれる可能性があるということである。これは、大学院に行っても、ある分野の専門家にしかなれない、というのとは全く違った話であることが分かってもらえたと思う。さらに重要な研究をすれば、基礎力が付くので、本当は応用範囲が広がっている。その上で、君がかかわった研究分野が時代の注目を浴びるようになっていたら、多くの企業が、競争で君を迎えようとするであろう。

この文章を、企業に職を得ている友人に見てもらったところ、この部分について以下のコメントをもらったので紹介しておく。

「最近は、社会の変化もあって、精神的成熟が遅れる傾向にある。それも含めて会社の対応も変わってきていて、今の博士を昔の修士、今の修士を昔の学士、と扱うような傾向も大分出てきている。したがって、博士号取得者の企業への就職は、これからますます有利になるだろう。」

(3-2)第2のポイントは、もっと簡単な競争原理の話である。今でも、博士号取得者に対する求人は修士号取得者に対するに比べて、非常に少ない。しかし、博士号をもっている人と修士号をもっている人の比を考えると、これはさらに小さい。したがって、競争を考えると、博士号をもっている方が就職は簡単だということになる。

しかも、修士での就職は、有象無象、動物園のような中で動き回って、わけのわからない就職担当者を相手に自分を売り込むことになる。博士での就職は、はるかに個人的・人間的なもので、じっくりと、自分の興味ある部署の話を聞くことができる。だから、こちらの方は両者が対等に近いお見合いと言ってよい。このような風に話を進めることを好まない企業は、従業員はこき使って、時期が来たら使い捨てにしようという文化やマネジメント体制をもっている可能性が高く、はじめから相手にしない方がよい。しかし、修士での就職では、これをかぎ分けるのは難しい。

うまく博士号を取る研究室を選べば、諸君の未来は極めて明るい。さらに、このレベルに達してしまえば、企業に就職しようが、大学に就職しようが(この部分、すでに、日本の企業とか日本の大学という枠ははずれている、世界が舞台である)、結局は同じことにも気づいていただけたであろうか? 大学に就職しても、自分自身の分野を新しく作れず、それまでの研究をそのまま続けるようでは、将来はないのだから。だから、このステップに早く達して見通しのよい研究観、世界観をもつことが大切だ。その早道は、よい研究室を探して、博士号を取得することである。

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終わりに

以上は私の見方・考え方である。実は、皆さん(私の所属する京大工学部機械物理工学系の学生を念頭に、この文章を書いた)の多くが賛同するとは思っていない。むしろ多くの皆さんは、今までの社会(親も含めて)と大学の中で訓練されてきており、そこでの鋳型にはめられてきているので、すぐには理解できないのではないか、賛同できないのではないかと思っている。しかし、この小文の目的は、この小文を読んだことを機会として皆さんが、皆さんの将来を、普段よりもう少し分析的に考えることである。

社会については上でいろいろ述べたので、最後に工学部の学生諸君が知っておくべき工学部の構造的問題の一つを説明して、この稿を終える。

日本の大学の工学部は、創立以来「学生の将来が一番明るくなるような教育と訓練を施す」というよりは、「日本の企業に、基礎教育を終えた人材を供給する」という観念に縛られてきている(つまり、前者が目的なら、最初から、「世界のどこの企業や社会でも働けて(あるいは会社を自分で設立できて)、世界をリードし、世界中で活躍する人たちを養成する」ことが当然視点に入っていなくてはいけないはずだね)。今でも学部教育の基本線にはこの観念がある。極端にいうと、個人の幸福よりは国と企業を富ませることが優先されている。これは修士の教育についても残っているが、博士の教育では、急速に緩和される。戦後の物質的荒廃から立ち直り、欧米に追いつくことが、国全体としても個人としても利益になった時代にあっては、「学生の将来が一番明るくなるような教育・訓練」と「日本企業への人材供給」という2つの目標は対立するものではなく、ほとんど同義であったといってよい(これは、東大が中央政府の官僚を供給するために作られ、今もその側面が強いのに似ているが、工学部の問題は、はるかに深刻だと思う。東大の学生は、全体としては今や十分のバリエーションをもっているが、工学部の学生に限ると、企業の中堅戦士?恐らく軍隊でいうと下級士官クラス?供給というベルトコンベアーに乗るのが当たり前でそれが嬉しくて仕方がないような学生に支配されている)。

問題は、時代が変わってしまっていて、この両者の目標は既にはっきりと分離した目標とされるべきであるにもかかわらず、日本の大学の工学部は、今までの 50-100年と同じような観念をもちつづけていることである。つまり、工学部は日本企業への人材供給という呪縛から解放されていない。富国強兵から生まれた考え方を変えなくてはいけないという社会からの圧力(表面的にはむしろ逆であろう)も学生からの圧力も受けていないことが大きな要因であろう。犠牲者は、まずは学生、次に企業(日本の企業も犠牲者になると思っている)、最後に日本社会、という順で現れて来るであろう。

諸君は、このような古い観念の犠牲者とならないためにも、もっと自律的に考え行動し、多数が黙って従っているようなトレンドから解放される必要がある。「みんなと同じようにしていれば、ここは京大だから大丈夫」というのは、とんでもない間違いだ、と強調して終わりたい。

博士号を取る研究室の選び方:参考となるポイント

(1)国際的に認められている指導教官のいる研究室を選ぶ。単純な基準は、どれくらいの論文が、国際的な標準誌に出ているかを見ることである。日本で出している英文雑誌でこの基準を満たすものはない。だから、逆にいうと、日本で出している英文雑誌ばかりに論文が出ている研究室には進まない方がよい(私の知っている限り、この規則に当てはまらない研究室は、3室くらいしかなかった。これも過去の話となり、今では0。世界中の人々が投稿してくる英文誌が日本にないのは寂しい限りだが、これの解決は別の問題)。日本語で、総説ではなく、原著論文を書いているようなところは、完全にアウト。

そのほか、国際的に認められているかどうかの、単純な見分け方をいくつか紹介しよう。

a)ホームページで、日本語で書いた論文・総説と英文で書いたまともな論文をごっちゃに掲載しているような研究室は、レベルが低いことが多い。2つの大きな差を理解していないことの現れだからである。両者を別の項目として出しているところはよい。

b)同様に、ホームページで、英文の原著論文と英文の総説を別の項目として区別して掲載している研究室も、非常によい。Refereeがついた原著論文と依頼原稿(refereeがいてもどちらかというとアドバイザーであり、rejectされることはまずない)とでは、意味が全く違う。

c)英語のホームページが充実しているかどうか。充実しているところは、外国人がアクセスしていることを意識しているので、指導教官は、国際的に認められている可能性が高い。

d)Science Citation Index に入って、ホームページにあった論文よりも新しい年を検索する。そうすると、その論文を引用している論文が出てくる。引用が多いのはよいサイン。次に、どのような引用のされ方をしているかを調べる。特に、地味だが本格的な論文が多く引用されていたら、そこの研究室は国際的実力派といってよい。Nature とか Science などの有名誌に載った論文の引用数が多いのはexposureが多いから当たり前で、しっかりした論文がちゃんと引用されているということが重要。

(2)基本的に重要なことに、本格的に取り組むことができる研究室を選ぶ。これが大切なことは、上の(3-1)の項目で書いたことを読めば明らかでしょう。判断は、指導の先生や研究生・院生と実際に話すことによってできるでしょう。

(3)頭の柔らかい先生を選ぶ。有名でも頭の固い先生につくと、新しいことを面白いと思う心のしなやかさ、違ったことにチャレンジする精神が衰える。その結果、企業に入ってから活躍できなくなるというのは、これも、上の(3-1)の項目で書いたことを読めば明らかでしょう。これについての判断も、指導の先生や研究生・院生と実際に話すことによってできるでしょう。

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